風水と氣]
風水では、あるひとつの概念が非常に重要なものとして扱われています。その概念は風水だけに限らず、古代中国における文化思想の根幹を成していました。
今でも、私達はその言葉を日常で特に意識することもなく使っています。軽く挙げてみましょう。
例えば――
「彼女は元氣だ」 「彼は病氣だ」 「今日は天氣がよい」 「彼は人氣者である」 「彼女には勇氣がある」 「あの人には氣を遣う」 「あの犬は氣が立っている」 「いい氣味だ」 「君には覇氣がない」 「森の中は空氣が美味い」 「彼のことを思うと氣が引ける」 「そんなに氣に病むことはない」 「君は氣を回しすぎだ」 「彼女は氣だての良い人だ」 「とて氣持ちいい」...などなど。
どれも日常で普通に話されている言葉ですが、そこには古代中国で体系化された概念が根底に置かれているのです。
その「ある概念」とは何でしょうか。 先程挙げた言葉全てに共通する単語は?
そう、それこそが「氣」なのです。 古代中国において、「氣」とは森羅万象全てにあまねく存在し、あらゆる存在に含まれているものでした。西洋の元素という概念同様、万物の根幹を成すものとして古代の中国では「氣」というものを定義したのです。 「氣」は全てのものが内包し、それは天にも地にも人にも含まれています。そしてそれは天と地、天と人、人と地の間を流れ、互いに影響を与えあっています。
そして、
多くの「氣」を取り入れることが出来れば、
命はより光り輝く
ようになるのです。
何故ならば、「氣」は全ての根元であり、私達の命をも形作っているものなのですから。
もっとも、「氣」というものは、現代の科学ではその存在が確認されていません。それは間違いのないことです。 しかし、存在が確認されていないからといって、それが科学で否定されているという事にはなりません。科学というものは、それが確実に「存在しない」と言うことが確定するまでは、決してそれを否定したりはしないのですから。 そして今現在、「氣」の存在は確認はされてはいませんが、同時に存在を否定されてもいません。つまり、科学は未だ「氣」に関して何も解明してはいないのです。 では、何故科学は「氣」を解明することが出来ないでいるのか。その理由は、「氣」というものがあまりにも微小な存在であるからだと、風水学では考えています。 現在の科学が見ている微小単位――分子、原子、素粒子――そのどれよりも、「氣」の粒子は更に小さいために、現在の科学では観測する事が出来ないのだ、と。 しかし、それ程に微小で微細なものであるからこそ、「氣」はあらゆるものの中に存在し、科学が解明している生命の代謝で、水と大気の動きで、地球と太陽の間でやり取りされ、流れ回転することが可能なのです。
|